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大山街道は信仰と牛馬の道であったそうです
備前備中地方から大山へ至るには大山往来・出雲往来・雲伯往来の3道がありましたが、大山往来は美作地方を経て大山に至る最短コースとして用いられていました。 備中足守で山陽道と別れ、吉川、尾原、落合を経て、久世で姫路方面から来た出雲往来と交差して、釘貫小川の宿に至ると、いよいよ大山往来になります。美作国分は、ここから藤森宿、郷原宿、延助宿と続き、伯者分に入って下蚊屋、御机とたどって大山寺に至る道です。 今も藤森、郷原や延助には、道沿いに住居が密集していることから、昔には宿場と呼ばれる集落であったろうことが推測されます。しかしながら、昔に栄えた面影はそれ以外には残念ながら見当たりません。
昔はお椀も貴重品だった山で働く人に「木地屋」と呼ばれる手工業者がいました。この人たちは山の中に住み・木を切って轆轤で加工し、椀や盆や大きな木地鉢などを作った人たちで、小さな集落を作って、良材を求めては、山から山へと移っていったようです。木地屋は、鉄山労働者と違って、農民からなったのではない。その起こりは、伝説によると、平安時代の初め9世紀のころ、文徳天皇の皇子に惟喬親王という不幸な皇子があり、近江国(現・滋賀県)の小椋郷に隠れ住んだが、親王は最後まで付き従ってくれた藤原実秀という貴族に小椋の姓を与え、木地職を始めさせたのが木地屋の基ともいわれ、この辺りの木地屋も小椋の姓を名乗る者が多いです。
蒜山地方には、田畑で働く農民のほかに、山で働く鉄山労働者と木地屋とがあったそうです。さて、タバコの栽培を取り入れた新しい農業が始まるにつれて、貨幣経済か発展し、農民の間では徳山家のような大地主が現れる反面、貧しいために田畑を売り渡して小作人となる者が少なくなかったようです。かれらのなかには、地主に雇われたりその小作入となるほか、鉄山労働者となって山に入っていく者もあったそうです。
そういえばタバコも作っていたなー今は昔、米麦の農業だけでは収益に限度があったようで。もっと収益率の高い作物をと、蒜山地方一帯に取り入れられたのかタバコでした。タバコの栽培に必要な手間は、一稲作の場合の6倍に当たるといわれ、農民にとっては大変な労働であったが、暮らしを高めるためには重労働を避けてはいられなかったのではないでしょうか。 タバコ栽培の始まりについては、いろいろな説が残っています。17世紀末のころ、大庭郡上徳山村(旧川上村上徳山)のある農民が、九州太宰府の天満宮に参詣したとき、その種子を持帰って畑に植えたところ、土地に適していたので蒜山地方一帯に広まったとか、また、上徳山村の徳山喜右衛門という人が、天和3年(1683)に薩摩国(現・鹿児島県)日置郡から種子を持ち帰ったものだともいわれ、あるいはまた、タバコの伝来はもっと古く元和年間(1615~1624)のことで、薩摩国指宿の人が、諸国の神社仏閣を巡拝する道すがらこの地に立ち寄り、宿料として置いていったタバコの種子か広まったものであるともいわれているようです。
今も蒜山の女性はよく働きます。蒜山地方の女性は「奥牛と奥女房」といわれるように、働き者として有名だったそうで、男子にまじって重い肥料を肥おいかご川に入れて背負ったり、牛を使って田畑も耕したそうです。 男子も、春から夏にかけては堆肥の山の大きさを誇り、競って積み上げたといわれています。
だけどお金はなかったみたい ゆとりのある、安定した経営を行うことができたのは徳山家のような少数の大地主で、蒜中地方のほとんどの農民は、火山灰の積ったやせた黒ぼこのわずかばかりの土地にしがみついて、貧しい生活を送らねばならなかったようです。 昔は皆貧しかったのです。
親しみを込めて『きこり先生』と呼んでいました。蒜山には徳山の姓を持つ家が数件あります。 この徳山本家はどこにいらっしゃるのでしょうか? 筆者の中学時代の先生に徳山鉄也という先生がいました。 ガマコシゴと呼ばれる背負子を背負い、晴れの日、吹雪にかかわらず50CCのカブに乗って学校にきて教鞭をとっておられました。 この先生がどうも本家ではないだろうかと筆者は思っています。
ノーリスクノーリターンは今昔、世の常か。。。。。徳山家がこのように裕福になったのは、田畑の30パーセントぐらいは小作に預けても、残り70パーセントぐらいは使用入などを使って耕作し、しかも米麦だけでなく、収益の多いタバコの栽培を行い、農業経営の合理化を図ってきたからといわれています。 また、新しい農業経営を行って得た金を元手として、酒・酢・しょう油の製造や、米・タバコの商売を営み、更にまたこの辺りの鉄の産出に目を向け、鉄商売から鉄山経営へと手を広げていきました。
徳山家ってそういうことだったの? 江戸時代の農村では、その政治・産業・文化そのほかすべての面で村の中心になったものは、家柄も古く、多くの田畑・山林を持つ地主でした。 蒜山では旧川上村の徳山家、遠藤家、旧八束村の丸山家などがそれでした。
地震で倒れないのだろうか! 強度計算に偽造はないか? 茅部神社は、もと村社で、茅部地区(本茅部、東茅部、別所)の氏神だったそうです。かつては十二所権現と称し、背後の岩倉山山中にある「天磐座」と呼ばれる巨岩を御神体として、社殿もその下方にありました。