蒜山・大山のコミ情報 蒜山大山ウォーカー

蒜山の文化・歴史

蒜山の開拓の歴史や地元特有の文化など、蒜山をより知って頂ける記事を毎回お届けします。

My Yahoo!に追加 Atomの追加 RSSの追加
探す




最近の記事

 

蒜山・大山ライターズブログ

成田教授の
    ワールドレジャーニュース


ファミリーのための
    アウトドアガイド

由井君のとっておき話
美和ちゃんの米子・松江情報
蒜山・大山新発見伝
昌代の口コミガイド
図書カードプレゼント
モバイル版はこちらから
蒜山三座ライブカメラ
お得なクーポン
« ちょっと前まで蒜山はただの山奥だった① | ブログのトップ | ちょっと前まで蒜山はただの山奥だった③ »

ジャンル:文化  

ちょっと前まで蒜山はただの山奥だった②

 ノーリスクノーリターンは今昔、世の常か。。。。。

徳山家がこのように裕福になったのは、田畑の30パーセントぐらいは小作に預けても、残り70パーセントぐらいは使用入などを使って耕作し、しかも米麦だけでなく、収益の多いタバコの栽培を行い、農業経営の合理化を図ってきたからといわれています。

 また、新しい農業経営を行って得た金を元手として、酒・酢・しょう油の製造や、米・タバコの商売を営み、更にまたこの辺りの鉄の産出に目を向け、鉄商売から鉄山経営へと手を広げていきました。

明治のなかごろまでは、中国地方から掘り出される鉄は、日本全体の産鉄量の6割を占めたといわれるが、蒜山盆地は中国地方でも有名な鉄の産地で、その砂鉄は古代から知られていたようです。これに目を付けた徳山家は、初めは鉄山経営者に元手を貸したり川、鉄商売で利益を上げていたが、それにあきたらないで、やがて真庭郡湯原町社の美谷鉄山を初め、周辺の村々から苫田郡へ、更に鳥取県にまで進出して、32の鉄山を経営したといわれています。

 初めは自分の元手による個人経営であったが、事業の拡張につれて、鳥取県の鉄山経営者から元手を借りて共同経営も行い、また、財政難に苦しんだ津山藩が財政たて直しのための手段として、苫田郡富村の大倉山に藩営鉄山を始めると、これを請負い、藩権力と結んで経営を一層確実に発展させていったようです。

 鉄山経営からの収入は年によって変動かあるとはいえ、多角的な経営と藩当局の保護を受けているという強味もあって、徳山家はますます裕福になっていったそうです。

 そして、徳山家は地主・村役人としての家柄にふさわしい学問や教養を身に付けることに努め、19世紀の初めには、久世代官所の早川代官から、すさんだ農村の気風を改めるようにと村民教諭係りを仰せつかり、「稚子遺教抄」や「農業子孫養育草」など農民の心得書を著し、上徳山村を初め、まわりの村々を教諭して回ったようです。

写真は郷原漆器と呼ばれる塗り物です。 蒜山が鉄で賑わっていた頃の産物でしょうか。。。。。

投稿日2006年03月06日 14:57


この記事へのコメント


(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます。)


この記事へのトラックバック: