ジャンル:文化
鉄山労働者と木地屋②
昔はお椀も貴重品だった
山で働く人に「木地屋」と呼ばれる手工業者がいました。この人たちは山の中に住み・木を切って轆轤で加工し、椀や盆や大きな木地鉢などを作った人たちで、小さな集落を作って、良材を求めては、山から山へと移っていったようです。
木地屋は、鉄山労働者と違って、農民からなったのではない。その起こりは、伝説によると、平安時代の初め9世紀のころ、文徳天皇の皇子に惟喬親王という不幸な皇子があり、近江国(現・滋賀県)の小椋郷に隠れ住んだが、親王は最後まで付き従ってくれた藤原実秀という貴族に小椋の姓を与え、木地職を始めさせたのが木地屋の基ともいわれ、この辺りの木地屋も小椋の姓を名乗る者が多いです。
筆者の友人に、鳥取県三朝地区で岡山との県境に近い所に住んでいる者がいます。 彼が住んでいる所は木地山といい、名前は小椋といいます。まさにこの言い伝えの通りです。 そういえば、彼がいうには、近所はみんな小椋性だそうです。
木地屋によって作られた白木の木地は、山から里に運ばれて、それに漆を塗って漆器に仕上げられたそうです。漆器を作る職人を塗師というが蒜山盆地やその周りには、この特殊な工芸品を作って生業とする集落があったようです。大山街道に沿った、川上村郷原などは蒜山地方きっての漆器の生産地で、今から250~260年も前から、伝統的な技術を伝えて来たといわれています。
このように漆器の生産が栄えたのは、木地屋の集落に近く、また原料の漆が付近の山にたくさん自生していて、採集に容易であるうえ、大山街道に沿っているので大山や出雲大社の門前市に運ばれ、参詣客に好んで求められたという事情によるといわれています。
江戸時代の最盛期には、蓋付き椀200個を1丸として、1年間に2、000丸以上を生産し、大山・出雲の地方はもちろん、九州・大阪方面にまで売り出されていた。明治時代になると、能登国(現・石川県)の輪島塗や、会津若松(現・福島県)の会津塗に圧倒されて、塗師の家も少なくなっていったそうです。
今、蒜山には蒜山漆器という名称でこの文化を守りつづけている人がいます。 私は橋本先生と昔ながらの敬称で及びいたしますが、この先生は教員を退職されてから蒜山漆器の工房を立ち上げられました。 久世の朝市などにも出店されたりして、結構な人気が有る様子です。
先生の蒜山漆器は、真庭市勝山の木の駅の売店が購入することができます。
投稿日2006年03月09日 15:25



