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    <title>蒜山大山ウォーカー: 蒜山の文化・歴史</title>
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    <updated>2007-10-28T12:45:03Z</updated>
    <subtitle>蒜山の開拓の歴史や地元特有の文化など、蒜山をより知って頂ける記事を毎回お届けします。</subtitle>
          <copyright>Copyright 蒜山・大山リゾート推進協議会</copyright>
 

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    <title>蒜山の植物は元気なのか？①</title>
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    <published>2007-10-28T04:50:21Z</published>
    <updated>2007-10-28T12:45:03Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;私のお気に入りの場所概して、イタドリ・ハギ・ススキ・ワラピ・アカマツ...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07911.jpg','popup','width=320,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07911.jpg"><img height="150" alt="福田神社の銀杏です" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07911-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>私のお気に入りの場所<br /><br /></strong></font><br />概して、イタドリ・ハギ・ススキ・ワラピ・アカマツ・コナラ・ヌルデなどは日当たりのよいところを好むようです。生い茂っていた林が切り払われると、この後にこうした植物が生えきます。これらの植物は暖帯植物であるが、日当たりさえよければ温帯林にも入っていくようです。山の南側の暖帯林が伐採されると、一面のササの群落におおわれたり、アカマツ・クヌギなどの日当たりのよいところを好む植物が生えます。</font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">蒜山でも南斜面はほとんどササに覆われているが、北の斜面は日照量の少ないことと、伐採される機会が少なかったために、安定した群落が見られる場所があります。盆地の南側の山々(中国山地)についても同じことがいえるようです。<br /><br />蒜山の木々でぜひご紹介したいものがあります。それは、福田神社の銀杏です。樹齢８００年とかいわれています。あまりに大きい銀杏なので、スズメバチが大きな巣をしていた程です。　小学生だった私は、爆竹や木切れでそのスズメバチと戦い、逃げ送れて頭に２匹が止まり、刺されて顔を真ん丸に腫らしたことがあります。<br /><br />３０年前のその頃から老いぼれた銀杏ではありましたが、秋にホントに見事な黄金色の紅葉が見えます。　お参りと併せて一石二鳥で出かけてみたらいかがですか？　平成１７年は１１月の初旬から２０日頃までが見頃でございました。</font>]]>
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    <title>蒜山の個性派動物</title>
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    <published>2007-05-15T04:58:37Z</published>
    <updated>2007-05-18T14:55:22Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;君は恐ろしかった！蒜山の動物としては、オオサンショウウオを第一に挙げ...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <category term="蒜山" />
    
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/sanshouuo1.jpg','popup','width=320,height=234,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/sanshouuo1.jpg"><img height="146" alt="蒜山地方の人々は「ハンザキ」と呼ぶオオサンショウウオ" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/sanshouuo1-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>君は恐ろしかった！</strong><img alt="" src="/hiruzen/mt-static/FCKeditor/editor/images/smiley/all/tigi.gif" /><br /></font><br />蒜山の動物としては、オオサンショウウオを第一に挙げねばなりません。体長150センチメートルにもなる、川巨大で、グロテスクなこの動物は、日本がまだ大陸と陸続きであった洪積世のころは広く分布していたが、・沖積世となり、日本全体か暖くなるにつれて河川の下流部分では絶滅したそうです。水の冷たい蒜山の風土と人々の愛情に守られて生き残ったこのオオサンショウウオは、文字どおり「生きた化石」と呼ぶにふさわしいです。体を半分に裂かれても生きているというので、蒜山地方の人々は「ハンザキ」と呼び、その数は年々減少していたが、昭和2年、国の天然記念物、のちに特別天然記念物に指定され、住民の保護のもとに、最近では少しずつ増えています。</font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">筆者はその昔、河童と呼ばれていて、川をせきとめた堰堤で遊ぶのが夏休みの日課で、水中眼鏡とモリを持ち、マスやアユを獲るのが大好きでした。　獲った魚を持って上がり、流木などでおこした焚き火で焼いて食べるのがなんとも美味しかったのを覚えています。　今の子供はこのような遊びをしない（川が整備されすぎて魚がいない）のは少し可哀想かな。<br /><br />さて、このサンショウウオですが、水中、大きな魚はかならずといって良いほど、大きな岩やブロックの下に隠れています。　<br /><br />忘れもしない中二８月、いつものポイントに潜ったところ、水中からこちらをじっと見つめ小さな目の生物がおり、モリでコツっとつつくと、こちらの方に向かって来て、顔のすぐそばを通って逃げていったオオサンショウウオには度肝を抜かれました。　あまりに恐かったので、水中で息を全部吐いてしまい、半分おぼれながら浮上しました。<br /><br />この話は内緒ですが、昔、川の工事をする際、このオオサンショウウオが出たら鍋にして食べていたそうです。　鳥のササミに似た味がして美味しかったそうです。　<br /><br />皆さんは食べてはいけませんよ。</font>
<p><br /></p>]]>
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    <title>蒜山人の暮らし②</title>
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    <published>2007-03-01T05:05:33Z</published>
    <updated>2007-03-03T10:26:13Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;どっちが田舎なんじゃ～塩釜に近い丘陵にピット(径90センチメートルほ...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <category term="文化" />
    
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/oomiyaorori031.jpg','popup','width=320,height=254,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/oomiyaorori031.jpg"><img height="158" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/oomiyaorori031-thumb.gif" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>どっちが田舎なんじゃ～</strong></font><br /><br />塩釜に近い丘陵にピット(径90センチメートルほどの袋穴のようなもの)があり、その内外から縄文式土器の細片か発見されました。<br />　この蒜山盆地は、季節的な、長期間にわたらない・臨時の狩猟採取の場となったようです。このことは、この地帯から発見された遺物が、他の中国山地の地区に比べて、発見地点が非常に多いにもかかわらず、その出土品が極めて少ないことが何よりの証拠だそうです。</font><br /><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">次に、この山深い、そして1年の3分の1が厚い雪で覆われている地帯に、人々はどこからやってきたかということである。現存している出土品からだけでは、瀬戸内の海岸平野から旭川をさかのぼって来たか、それとも距離的に近い山陰の海浜地帯からやって来たのかは明らかではありませんが、いずれにしても、この蒜山地方が瀬戸内海文化と山陰文化の接触地帯になったのではないかと推測されています。<br /><br />蒜山の方言は、一番近い湯原とでも大きく異なります。　～じゃーとかいういわゆる岡山弁は全く使いません。どちらかというと山陰、鳥取県中部の言葉に近いと思います。　筆者などは高校時代を勝山町で過ごしたものですから、勝山や久世の同級生などから田舎者扱いされて肩身の狭い思いをしたことがございます。　<br />みんな田舎もんだったんだなーと思うこのごろです。<br /><br /></font>写真は蒜山の盆踊り（大宮おどり）の一コマです。　筆者は昔は踊れましたが、今は忘れてしまいました。　筆者はもう青年という年ではないのですが、毎年、8月15日頃になると、写真上にぶら下げる飾り物を作りに行きます。　大して作業をせずに、朝からビールを飲んでなんとか間に合うという楽しい時間が過ごせます。]]>
    </content>
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    <title>蒜山人の暮らし①</title>
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    <published>2007-02-07T05:03:07Z</published>
    <updated>2007-02-07T11:15:10Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;こんなマンションに住んでいた古代蒜山人蒜山盆地に入々が住みつくように...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <category term="文化" />
    
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07381.jpg','popup','width=320,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07381.jpg"><img height="150" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07381-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>こんなマンションに住んでいた古代蒜山人<br /></strong></font><br />蒜山盆地に入々が住みつくようになったのは、今から約4、000年ほど前(縄文後期の初期)、この蒜山の原野にイノシシや鹿などを追ったり、木の実を取るためにやってきた人々が最初であろうといわれています。</font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">それを実証する縄文遺跡や、縄文式土器・石器など一を出土した地点が10か所ほど発見されており、この数は、中国山間部の他地域に比べて極めて多いそうです。たとえば、美作の他地域において、縄文式土器が1片ないし数片発見された場所は、わずかに5～6か所に過ぎないことからもよくわかります。<br /><br /></font>写真は蒜山郷土博物館内のものです。　かつて、誰かが焚き火をして焼けたことがあります。]]>
    </content>
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    <title>昔の生活を垣間見る⑤</title>
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    <published>2007-01-08T04:24:33Z</published>
    <updated>2007-01-08T04:30:28Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;ゴムなんて無かった時代のこと平安時代にも人が住んでいたとは驚き。「和...]]></summary>
    <author>
        <name>三原 昌代</name>
        
    </author>
    
        <category term="歴史" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/">
        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/gamasaiku1.jpg','popup','width=320,height=391,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/gamasaiku1.jpg"><img height="244" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/gamasaiku1-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font color="#ff0000"><strong>ゴムなんて無かった時代のこと<br /></strong><font color="#000000" size="2">平安時代にも人が住んでいたとは驚き。<br /><br /><br />「和名抄」などによれば、平安時代の蒜山地方は美作国大庭郡布勢郷と呼ばれていたそうです。<br /><br />布勢郷は次第に荘園化して、中世になると布施庄といわれるようになったようです。その布勢郷(布施庄)の境域は広大で、現在の真庭郡旧川上村・八束村・中和村と湯原町にまたがっていたようです。<br /><br />　奈良・平安時代のことはよくわかっていませんが、「続日本紀」の神亀5年(728)の条には、「美作国内の大庭・真嶋の2郡は、都に送る税の米か860余石の記述。山川が峻遠なために、米を輸送するのか非常に困難で、入馬ともに疲れて、輸送費用などか極めて多くかかる。だから、できれば税米に換えて綿や鉄を納めさせてもらいたい。」と美作国から願い出ている記事があるそうです。</font><br /></font>]]>
        <![CDATA[<font size="2">この地方は、地理的に不便な山間へき地であったがようですが、綿や鉄の貴重な特産物が生産されていたことは注目に値いします。県下においては、古墳時代後期の終わりごろから、「たたら」とよばれる原始的な製鉄法で、砂鉄から鉄を生産していたことが知られていました。<br /><br />　この山深い自然的条件のよくない地方で、奈良・平安時代に極めて貴重な産物であった鉄が生産されていたことは、水田耕作の困難なこの蒜山原に住む人々にとって、かけがえのない大切な資源を得たことで、筆者のような不遜な子孫も生を受けることができたのではないでしょうか。。。。。<br /><br /><br /></font>写真は、蒜山地方に伝えわる蒲細工の背負子や雪靴です。<br />]]>
    </content>
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    <title>昔の生活を垣間見る④</title>
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    <published>2006-12-17T05:17:50Z</published>
    <updated>2006-12-17T11:16:02Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;&nbsp;筆者のおじいさんも着ていたぞ。　この盆地に点...]]></summary>
    <author>
        <name>三原 昌代</name>
        
    </author>
    
        <category term="歴史" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/">
        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG075421.jpg','popup','width=320,height=426,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG075421.jpg"><img height="266" alt="蒜山郷土博物館内展示、昔の農作業着です。" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07542-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;&nbsp;<font color="#ff0000"><strong>&nbsp;</strong></font><font size="2"><font color="#ff0000"><strong>筆者のおじいさんも着ていたぞ。<br /></strong></font><br /><br />　この盆地に点在する古墳には、前方後円墳がないという特色をもっています。山陰側の関金・倉吉などにおいても、美作の津山・鏡野・勝間田・久世などにおいても、古墳時代前期の首長の墳墓は、ほとんどの場合前方後円(方)として造営され、その規模も40～80メートルに達するほどですが、この蒜山では、前方後円墳がないばかりでなく、それに相当するような大形の前期古墳は知られていません。</font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">このことから、弥生時代には農業があまり進展しないで、古墳時代になって開発が進んだということが推測されます。この点、この盆地は他地方に比べ古墳文化の波及も遅れたようで、しかも、古墳かこの原野の一角に集中して次々と営まれていることは、同族的な盆地内の最有力な豪族の墳墓とみることかできます。<br /><br />　後期古墳は、一般的には横穴式石室を持っているが、この原野にはそれか案外少なく、140基のうち20基を数えるに過ぎないことも、他の中国山間部と比べ、大きな特徴といえるようです。<br /><br />四つ塚古墳が発掘されたのは、筆者が小学校４年か５年の頃であったように思います。　最近になって、その古墳の近所に住む同級生に聞いたところ、古墳に入って勝手に兜や土器を持って帰って家に置いていたなどということを聞きました。　<br /><br />太古の人は、子孫である蒜山の子供がチャンバラなどに出土した兜を使っても許してくれるのではないでしょうか。<br /><br /></font>]]>
    </content>
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    <title>昔の生活を垣間見る③</title>
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    <published>2006-11-15T05:15:13Z</published>
    <updated>2006-11-15T10:41:55Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;誰かが中に入って兜を持って帰ったらしい蒜山のの古墳群中、最も重要なも...]]></summary>
    <author>
        <name>三原 昌代</name>
        
    </author>
    
        <category term="歴史" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/">
        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/i1_b1.jpg','popup','width=320,height=202,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/i1_b1.jpg"><img height="126" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/i1_b1-thumb.gif" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>誰かが中に入って兜を持って帰ったらしい<br /></strong></font><br />蒜山のの古墳群中、最も重要なものは四つ塚古墳群です。この16基の古墳群は、下蒜山の長いすそ野か沖積地と接する辺りの低い丘陵上にあり、この盆地最大の規模を持つものです。</font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">この群は古墳時代の後期(9世紀前半～中頃)に造営されたもののようで、第1号墳は古式の横穴式石室をもつ後期初頭の古墳で、第13号墳は木棺をもち、象形埴輪(家・人物・馬・にわとりなど)や円筒埴輪をめぐらした後期初頭の古墳です。<br /><br />この古墳中、最も巨大なものは墳丘の径が約27～30メートル、高さ約4～4.5メートルの円墳(第3号墳)であり、最小のものは径約9メートル、高さ約1～1、3メートルの円墳(第10号墳)です。16基の古墳のうち、径20メートルを超えるものが8基もあります。さらにこの盆地においては、この古墳群が最初につくられたことも、規模の大きさとともに、その価値を高めています。</font>]]>
    </content>
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    <title>昔の生活を垣間見る②</title>
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    <published>2006-10-26T01:11:05Z</published>
    <updated>2006-10-26T01:54:04Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;写真は蒜山郷土博物館です。貧弱な技術と体制しか持たなかっ...]]></summary>
    <author>
        <name>三原 昌代</name>
        
    </author>
    
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07361.jpg','popup','width=320,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07361.jpg"><img height="150" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07361-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07542.jpg','popup','width=320,height=426,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07542.jpg"></a>&nbsp;<font size="2">写真は蒜山郷土博物館です。<br /><br />貧弱な技術と体制しか持たなかった弥生期の人々が、冷害から守り得る水田にすることはまず不可能なことであったであろうと考えられています。また、盆地中央の低地を、旭川の治水を行うことによって、広く水田化することも無理であったろうと推測されます。かろうじて可能な地域として推察できるところは、盆地南側の北面傾斜地の谷です。</font><br /><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">弥生時代の石器類は、みなこの地帯から発見されています。従って、弥生中期から後期のある時期に、人々がこの盆地の水温の寒冷さ川を克服することに成功して、この地域の一部が開拓され始め、細々とした稲作が営まれていたと考えられますが、このことは、非常に驚異的なことといえるようです。<br /><br />　弥生時代にあまり開拓されなかったこの蒜山盆地も、古墳時代に入って急速に開発されていったようです。<br /><br />　蒜山盆地には、140基を超える古墳が知られている。それは中央低地帯をとりまく低い山々と丘陵上に、ほぼ盆地の東西全体にわたって分布しています。<br /><br />筆者も中学生の頃、訳の分からぬままに古墳発掘のお手伝いをさせてもらったことがあります。前述の盆地南側だったと思いますが、畑には土器の破片らしきものがいくらでもありました。　パイプを地面に突っ込んで、それに詰まった土から地層を判断などという学術的なことをさせてもらいました。<br /><br /></font>]]>
    </content>
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    <title>昔の生活を垣間見る①</title>
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    <published>2006-10-20T05:07:52Z</published>
    <updated>2006-10-25T00:39:59Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;テレビもラジオも無い生活（当たり前か・・・）蒜山盆地では、瀬戸内海や...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07431.jpg','popup','width=320,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07431.jpg"><img height="150" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07431-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>テレビもラジオも無い生活（当たり前か・・・）<br /></strong></font><br />蒜山盆地では、瀬戸内海や山陰の海浜地帯に見い出される特徴のある弥生式土器は、ほとんど発見されていそうです。また、同じ美作の他の地域(那岐山麓や津山市周辺・久世町付近など）で発見される弥生中期から後期にかけての櫛目文や、凹線文のほどこされている弥生式土器も出土していないようです。よく出土しているのは、文様のない単純な形の弥生期終末から古墳時代の土器です。</font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">蒜山盆地から出土した弥生時代の遺物としては、磨製石庖丁(川上村上徳山)・偏平片刃石斧(川上村)や、その他に石庖丁(稲の穂をつむ)があるにすぎません。このことは、美作の南部地域や、北の関金～倉吉(鳥取県)の地帯において、いたるところから弥生式土器が発見されることと、かなり対照的であるそうです。<br /><br />　このことは、蒜山盆地では弥生期の稲作があまり盛んに行われなかったことを意味しているようです。現在でも、この盆地の水田分布はそのほとんどか旭川に沿った低地帯に集中しており、広大なすそ野の谷間から谷の奥深くになるにつれて、水田は次第にまばらになります｡<br /><br /></font>写真は蒜山郷土博物館展示の四つ塚古墳出土品です。]]>
    </content>
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    <title>今では知っている人は少なくなった③</title>
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    <published>2006-08-26T05:42:15Z</published>
    <updated>2006-08-26T14:29:07Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;蒜山にもあった高天原ミステリー○蒜山の神と伝説(日留神社・児守神社)...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/tenku011.jpg','popup','width=320,height=254,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/tenku011.jpg"><img height="158" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/tenku011-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>蒜山にもあった高天原ミステリー</strong></font><br /><br />○蒜山の神と伝説(日留神社・児守神社)<br />　中蒜山の中腹に、日留神社の石の宮がある。倉吉の石工・文四郎が明治2年8月に造ったという。もとは木の宮などかあったのかもしれないが、それほど古くさかのぼるものではないと考えられています。祭神の天照大神をオオヒルメノムチという言葉に端を発した社名であろうといわれています。<br />　ヒルという言葉には、よく「霊」の字か当てられ、神の山の意味であったと考えるにふさわしい伝説が少なからず残っています。こうした伝説の中心になるものは、具体的には蛇の物語です。</font><br />]]>
        <![CDATA[　<font size="2">蒜山地方には、蛇に関する伝説が数多く残されています。その著名なものの一つに、旧八束村上井川の七屋敷という所に長者がいて、2人の娘を、蒜山のカイガ谷の大蛇のいけにえに捧げて村人を守った。その2人の娘の霊を中福田の児守神社に祀ったという伝えかあります。<br /><br />地名の、大蛇、大蛇ケ此、ナメラなども、古くは蛇祭の神事のあったことをしのばせます。　筆者の同級生にもいましたが、住んでいるところはオロチですといっておりましたが、オロチで大蛇のことなのですね。<br /><br /></font>写真は蒜山の神話の中心、茅部神社の天空の郷です。登るのは一苦労です。]]>
    </content>
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    <title>今では知っている人は少なくなった②</title>
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    <published>2006-08-26T05:38:13Z</published>
    <updated>2006-08-26T14:30:34Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;本当かいな？○伝説　大杉旧跡　福田神社の境内には、その昔、大さ7尋(...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG06301.jpg','popup','width=320,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG06301.jpg"><img height="150" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG06301-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>本当かいな？</strong></font><br /><br />○伝説　大杉旧跡<br />　福田神社の境内には、その昔、大さ7尋(約13m)の老杉が天を突いてそびえていたが、それがあまりに大きすぎて米子の浜に影をさすので魚か獲れないといって漁師たちが抗議に来たという。　この老杉に火が燃え移り、7日7夜燃え続けたといわれています。</font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">現在の古杉の根元に、寛政8年(1796)焼亡、周囲6丈8尺と刻んだ「大杉旧趾之記念碑」が建っています。<br /><br /></font>写真は福田神社の鳥居です。　]]>
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    <title>今では知っている人は少なくなった</title>
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    <published>2006-06-22T05:35:17Z</published>
    <updated>2006-06-22T08:09:10Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;河童石伝説(真庭市中福田)旧八束村の西端を流れる湯船川が旭川に合流す...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/suiton011.jpg','popup','width=320,height=211,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/suiton011.jpg"><img height="131" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/suiton011-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font color="#ff0000" size="2"><strong>河童石伝説(真庭市中福田)</strong></font><br /><font size="2">旧八束村の西端を流れる湯船川が旭川に合流する辺りに、むかし、河童渕と呼ぶ大きな渕があって、悪い河童が住んでいたそうです。ある時、川岸にいた馬を渕の中へ引きずり込もうとして争っているうちに頭の皿が割れてしまい、神通力を失った河童は、農家の廐へ連れ込まれてしまいました。</font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">村の人々が怒って、あわや処刑という段になって、前非を悔いた河童が「二度とこの地へは戻りません」と涙を流し、その証拠に手形を押した石(高さ2m、胴回り1.4mの花崗岩の自然石)を建てて、いずこともなく消えていった、と語り継がれています。<br /><br /></font>写真は、河童石と並ぶ蒜山の不思議、スイトンです]]>
    </content>
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    <title>今は昔、大山みちをながめて</title>
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    <published>2006-03-12T07:02:25Z</published>
    <updated>2006-06-09T04:13:31Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;　大山街道は信仰と牛馬の道であったそうです 備前備中地方から大山へ至...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <![CDATA[<p><a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07811.jpg','popup','width=320,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07811.jpg"><img height="150" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07811-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2">　<font color="#ff0000"><strong>大山街道は信仰と牛馬の道であったそうです</strong></font></font></p>
<p><font size="2">備前備中地方から大山へ至るには大山往来・出雲往来・雲伯往来の3道がありましたが、大山往来は美作地方を経て大山に至る最短コースとして用いられていました。<br /><br />　備中足守で山陽道と別れ、吉川、尾原、落合を経て、久世で姫路方面から来た出雲往来と交差して、釘貫小川の宿に至ると、いよいよ大山往来になります。美作国分は、ここから藤森宿、郷原宿、延助宿と続き、伯者分に入って下蚊屋、御机とたどって大山寺に至る道です。　今も藤森、郷原や延助には、道沿いに住居が密集していることから、昔には宿場と呼ばれる集落であったろうことが推測されます。しかしながら、昔に栄えた面影はそれ以外には残念ながら見当たりません。</font><br /></p>]]>
        <![CDATA[<font size="2">　湯原町と川上村の境にある烏居ヶ乢には、かつて大智明権現大山寺四面の鳥居のうち、南面の鳥居があったと、元禄4年(1691)編さんされた「作陽誌」に記されています。ここは大山遥拝の地のひとつであり、老人や女性、身体の弱い者などは、ここからはるかに大山を拝んだといわれています。<br /><br />　年に5回の牛馬市(博労座)が開かれる時は、牛馬仲買入や、この機会にと参詣する善男善女がこの往来を行き来し、特に春と秋の2季には大変なにぎわいを見せたといわれていますが、このにぎわいも、大正元年(1912)の伯備線開通、昭和12年(1937）の大山博労座閉幕などによって次第に衰退し昔話となってしまったそうです</font>。]]>
    </content>
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    <title>鉄山労働者と木地屋②</title>
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    <published>2006-03-09T06:25:40Z</published>
    <updated>2006-06-09T04:13:31Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;昔はお椀も貴重品だった山で働く人に「木地屋」と呼ばれる手工業者がいま...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <category term="文化" />
    
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/gobarashikki2.jpg','popup','width=320,height=238,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/gobarashikki2.jpg"><img height="148" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/gobarashikki2-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>昔はお椀も貴重品だった</strong></font><br /><br />山で働く人に「木地屋」と呼ばれる手工業者がいました。この人たちは山の中に住み・木を切って轆轤で加工し、椀や盆や大きな木地鉢などを作った人たちで、小さな集落を作って、良材を求めては、山から山へと移っていったようです。<br />木地屋は、鉄山労働者と違って、農民からなったのではない。その起こりは、伝説によると、平安時代の初め9世紀のころ、文徳天皇の皇子に惟喬親王という不幸な皇子があり、近江国(現・滋賀県)の小椋郷に隠れ住んだが、親王は最後まで付き従ってくれた藤原実秀という貴族に小椋の姓を与え、木地職を始めさせたのが木地屋の基ともいわれ、この辺りの木地屋も小椋の姓を名乗る者が多いです。<br /></font><br />]]>
        <![CDATA[<font size="2">筆者の友人に、鳥取県三朝地区で岡山との県境に近い所に住んでいる者がいます。　彼が住んでいる所は木地山といい、名前は小椋といいます。まさにこの言い伝えの通りです。　そういえば、彼がいうには、近所はみんな小椋性だそうです。<br /><br /><br />木地屋によって作られた白木の木地は、山から里に運ばれて、それに漆を塗って漆器に仕上げられたそうです。漆器を作る職人を塗師というが蒜山盆地やその周りには、この特殊な工芸品を作って生業とする集落があったようです。大山街道に沿った、川上村郷原などは蒜山地方きっての漆器の生産地で、今から250～260年も前から、伝統的な技術を伝えて来たといわれています。<br /><br />　このように漆器の生産が栄えたのは、木地屋の集落に近く、また原料の漆が付近の山にたくさん自生していて、採集に容易であるうえ、大山街道に沿っているので大山や出雲大社の門前市に運ばれ、参詣客に好んで求められたという事情によるといわれています。<br /><br />　江戸時代の最盛期には、蓋付き椀200個を1丸として、1年間に2、000丸以上を生産し、大山・出雲の地方はもちろん、九州・大阪方面にまで売り出されていた。明治時代になると、能登国（現・石川県）の輪島塗や、会津若松(現・福島県)の会津塗に圧倒されて、塗師の家も少なくなっていったそうです。<br /><br />今、蒜山には蒜山漆器という名称でこの文化を守りつづけている人がいます。　私は橋本先生と昔ながらの敬称で及びいたしますが、この先生は教員を退職されてから蒜山漆器の工房を立ち上げられました。　久世の朝市などにも出店されたりして、結構な人気が有る様子です。<br />先生の蒜山漆器は、真庭市勝山の木の駅の売店が購入することができます。</font>]]>
    </content>
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    <title>鉄山労働者と木地屋①</title>
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    <published>2006-03-09T06:13:55Z</published>
    <updated>2006-06-09T04:13:31Z</updated>
    
    <summary><![CDATA[&nbsp;蒜山地方には、田畑で働く農民のほかに、山で働く鉄山労働者と木地屋とが...]]></summary>
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        <name>三原 昌代</name>
        
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        <category term="文化" />
    
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        <![CDATA[<a onclick="window.open('http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07751.jpg','popup','width=320,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false" href="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07751.jpg"><img height="150" alt="" hspace="5" src="http://www.hiruzendaisen.com/bunka/CIMG07751-thumb.jpg" width="200" align="left" /></a>&nbsp;<font size="2"><font color="#ff0000"><strong>蒜山地方には、田畑で働く農民のほかに、山で働く鉄山労働者と木地屋とがあったそうです。<br /></strong></font>さて、タバコの栽培を取り入れた新しい農業が始まるにつれて、貨幣経済か発展し、農民の間では徳山家のような大地主が現れる反面、貧しいために田畑を売り渡して小作人となる者が少なくなかったようです。かれらのなかには、地主に雇われたりその小作入となるほか、鉄山労働者となって山に入っていく者もあったそうです。<br /><br /></font>]]>
        <![CDATA[　<font size="2">鉄山では、鉄穴流しといって、砂鉄を含んだ土砂を掘り出し、それを水洗いして砂鉄を選別する仕事や、それを精錬するための燃料である木炭を生産する仕事などがあります。このような仕事は、砂鉄・木炭・錬鉄などの運搬などと共に、鉄山の近くの農民たちの副業で、貧しい農民たちのまたとない家計の支えとなっていたようです。<br /><br />　選別された砂鉄は、高殿と呼ばれる仕事場の、粘土でつくられた炉の中でたかれ、さらにこの銑鉄(ずく)は錬鉄に加工されたこの製鉄・加工の仕事は、鉄山経営者に常に雇れている「山内者」と呼ばれた技術労働者の仕事でした。<br /><br />　鉄山も10年から15年もたつと、燃料か少なくなるので他に移りますが、その後には鉄穴流しによって土砂がたまった土地が残り、それを開いて新田として開拓するため、貧しい農民たちが移り住んで小作人となる場合も多かったようです。<br /><br />写真は鉄とは全く関係ありません。　鉄山は滅び、煙があがる姿は同じですが、昭和化学工業が珪藻土を精製している煙突から白煙があがります。</font><br /><br />]]>
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