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蒜山の文化・歴史

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 ゴムなんて無かった時代のこと
平安時代にも人が住んでいたとは驚き。


「和名抄」などによれば、平安時代の蒜山地方は美作国大庭郡布勢郷と呼ばれていたそうです。

布勢郷は次第に荘園化して、中世になると布施庄といわれるようになったようです。その布勢郷(布施庄)の境域は広大で、現在の真庭郡旧川上村・八束村・中和村と湯原町にまたがっていたようです。

 奈良・平安時代のことはよくわかっていませんが、「続日本紀」の神亀5年(728)の条には、「美作国内の大庭・真嶋の2郡は、都に送る税の米か860余石の記述。山川が峻遠なために、米を輸送するのか非常に困難で、入馬ともに疲れて、輸送費用などか極めて多くかかる。だから、できれば税米に換えて綿や鉄を納めさせてもらいたい。」と美作国から願い出ている記事があるそうです。



投稿日2007年01月08日 13:24 | コメント (0)

蒜山郷土博物館内展示、昔の農作業着です。   筆者のおじいさんも着ていたぞ。


 この盆地に点在する古墳には、前方後円墳がないという特色をもっています。山陰側の関金・倉吉などにおいても、美作の津山・鏡野・勝間田・久世などにおいても、古墳時代前期の首長の墳墓は、ほとんどの場合前方後円(方)として造営され、その規模も40~80メートルに達するほどですが、この蒜山では、前方後円墳がないばかりでなく、それに相当するような大形の前期古墳は知られていません。



投稿日2006年12月17日 14:17 | コメント (0)

 誰かが中に入って兜を持って帰ったらしい

蒜山のの古墳群中、最も重要なものは四つ塚古墳群です。この16基の古墳群は、下蒜山の長いすそ野か沖積地と接する辺りの低い丘陵上にあり、この盆地最大の規模を持つものです。



投稿日2006年11月15日 14:15 | コメント (0)

  写真は蒜山郷土博物館です。

貧弱な技術と体制しか持たなかった弥生期の人々が、冷害から守り得る水田にすることはまず不可能なことであったであろうと考えられています。また、盆地中央の低地を、旭川の治水を行うことによって、広く水田化することも無理であったろうと推測されます。かろうじて可能な地域として推察できるところは、盆地南側の北面傾斜地の谷です。




投稿日2006年10月26日 10:11 | コメント (0)

 テレビもラジオも無い生活(当たり前か・・・)

蒜山盆地では、瀬戸内海や山陰の海浜地帯に見い出される特徴のある弥生式土器は、ほとんど発見されていそうです。また、同じ美作の他の地域(那岐山麓や津山市周辺・久世町付近など)で発見される弥生中期から後期にかけての櫛目文や、凹線文のほどこされている弥生式土器も出土していないようです。よく出土しているのは、文様のない単純な形の弥生期終末から古墳時代の土器です。



投稿日2006年10月20日 14:07 | コメント (0)

 蒜山にもあった高天原ミステリー

○蒜山の神と伝説(日留神社・児守神社)
 中蒜山の中腹に、日留神社の石の宮がある。倉吉の石工・文四郎が明治2年8月に造ったという。もとは木の宮などかあったのかもしれないが、それほど古くさかのぼるものではないと考えられています。祭神の天照大神をオオヒルメノムチという言葉に端を発した社名であろうといわれています。
 ヒルという言葉には、よく「霊」の字か当てられ、神の山の意味であったと考えるにふさわしい伝説が少なからず残っています。こうした伝説の中心になるものは、具体的には蛇の物語です。



投稿日2006年08月26日 14:42 | コメント (0) | トラックバック (4)

 本当かいな?

○伝説 大杉旧跡
 福田神社の境内には、その昔、大さ7尋(約13m)の老杉が天を突いてそびえていたが、それがあまりに大きすぎて米子の浜に影をさすので魚か獲れないといって漁師たちが抗議に来たという。 この老杉に火が燃え移り、7日7夜燃え続けたといわれています。



投稿日2006年08月26日 14:38 | コメント (0) | トラックバック (2)

 河童石伝説(真庭市中福田)
旧八束村の西端を流れる湯船川が旭川に合流する辺りに、むかし、河童渕と呼ぶ大きな渕があって、悪い河童が住んでいたそうです。ある時、川岸にいた馬を渕の中へ引きずり込もうとして争っているうちに頭の皿が割れてしまい、神通力を失った河童は、農家の廐へ連れ込まれてしまいました。



投稿日2006年06月22日 14:35 | コメント (0)

  大山街道は信仰と牛馬の道であったそうです

備前備中地方から大山へ至るには大山往来・出雲往来・雲伯往来の3道がありましたが、大山往来は美作地方を経て大山に至る最短コースとして用いられていました。

 備中足守で山陽道と別れ、吉川、尾原、落合を経て、久世で姫路方面から来た出雲往来と交差して、釘貫小川の宿に至ると、いよいよ大山往来になります。美作国分は、ここから藤森宿、郷原宿、延助宿と続き、伯者分に入って下蚊屋、御机とたどって大山寺に至る道です。 今も藤森、郷原や延助には、道沿いに住居が密集していることから、昔には宿場と呼ばれる集落であったろうことが推測されます。しかしながら、昔に栄えた面影はそれ以外には残念ながら見当たりません。



投稿日2006年03月12日 16:02 | コメント (0)

 徳山家ってそういうことだったの?

 江戸時代の農村では、その政治・産業・文化そのほかすべての面で村の中心になったものは、家柄も古く、多くの田畑・山林を持つ地主でした。 蒜山では旧川上村の徳山家、遠藤家、旧八束村の丸山家などがそれでした。



投稿日2006年03月06日 14:50 | コメント (0)