刊行によせてごあいさつ目次本文(随時追加)本書『浪漫』の購入をお考えの方へお問合せ・ご意見 最終更新日:2006年4月20日

 

若き日の自画像
第三章  若き日々

棟方志功先生と長谷川先生と高木啓太郎先生のこと

昭和19年春の夕方、河原町の格子の間で勉強中の私は、複数の軍靴の音に目を向けた。

少年の頃の自画像
金モールづくめの色白の将官と下士官が机の前2m先を左側通行で通り過ぎた。

軍国少年であった私は、下駄を履いて、後を追い、200m先の小鴨橋まで見送った。
下士官は、若き日の高木先生であり、金モールの人は、終戦時、陸軍の軍医総監のお兄さんであった。

私達、兄弟4人は、高木先生のご母堂様にすべて取り上げて頂き、ことに、姉と弟はともに2月生まれ、私は1月生まれであり、雪の中を、中河原から河原町まで、2キロメートル余の距離を御高診頂いてのお世話であるから、大変な御恩を頂いていたことになる。

今、西町のギャラリーの1階入口に「 真善美 」、そして2階の貴賓室の「六天飛翔 」の立派な書を飾っているのは、高木先生の書で、譲って頂いたものである。

京都から帰倉し、倉吉初の仏師として御活躍の山本師に、中島のおばちゃんを通じて、頼んで作って頂いた弁財天の木彫を、高木御夫妻に西町の貴賓室へ御来駕賜わり、長谷寺の先代の奥野法院さんに拝んでいただき、御礼にと献上した。

高木先生は、サンカメラ・民芸店・土蔵そばと手広く、又、隆昌に活躍され、シベリアでの命がけの御体験から、「 元気だるま 」「 やる気だるま 」四十八体を創り、特約の東急百貨店本店で数回、モントリオー
ル展まで、各地で高い評価であった。

「元気だるま」には、〈 五十や六十 花なら蕾 七十、八十 働きざかり 九十になってお迎え来たら百まで待てと追い返せ 〉1991年正月 百拙という額装の色紙があり、「やる気だるま」には、 〈 一、少肉多菜 少塩多酢 一、 少糖多果 少食多齟 一、少煩多眠 少怒多笑 一、 少言多行 少欲多施 一、 少衣多浴 少車多歩 右厳守実行のこと。(高木医学博士書より ) 〉1992年正月 百拙という額装の色紙がある。この「百拙」は、高木啓太郎先生の号である。

1990年の正月の「こころの言葉 」という額装の色紙には、〈 ふとしたご縁は 年ごとに輪を展げる おかげはんで 大丈夫 大丈夫 笑っておはよう 今日も元気 春夏秋冬 ようこそ ようこそ 〉と書かれている。(これらの額装は、琴浦町 畳見一俊氏 提供)

それぞれの額は、しゃれた達筆で書かれており、洒脱で、味わい深い作品と思う。又、「長谷坂三千編」の1日1枚のスケッチ集と歌集も「続」[続々]編となり、長谷寺日参の見事な御本もできている。更に、県写真家協会の副会長としても著名であった。

私が、脳梗塞で、記憶も大半空白となり、又、言語失調の頃、「パープルS/C」に、棟方志功展が来た。
ただ黙って立ち続ける私は、「ウダは天才だ!日本のゴッホだ!」の志功さんへの友情のお返しにと、手弁当でボランティアされた故 無弟 長谷川富三郎先生の尊いお姿に感激したことを、昨日のことにように思い出す。

そのなかに、倉吉の版画グループの熱い願い、すなわち、「脳卒中で倒れられた世紀の天才版画家を助けたい!」という思いは、高木啓太郎氏を通じて、啓太郎氏の兄上である在京の高名な高木医学博士に「必ず治してみせる。」と宣言させ、「針治療」によって見事に実現された由、世界に誇る巨匠志功の作品は、病後から画期的に素晴らしい展開を示した事は衆知の通りである!!。 この天才の復活に、倉吉の有志の面々の熱い祈りが・・・・願いの賜物であったのだ。

終戦翌年の正月の書初めにと、鍛治町の「やまや呉服店」の美しい令嬢をモデルに、徳吉先生(中学教師)宅の書斎で、長谷川先生(明倫小学校の教師)と中学3年の私の3人で、「木炭(すみ)」持参で、描かせて頂いた事も思い出した。懐かしい!。

徳吉先生は、早死され、奥様は高木先生の店を手伝われ、やがて再婚され、充実した幸せな御生涯を過ごされたのであった。又、恩師、米本先生の遺作展の画集に、高木先生の一文があり、米本先生の如き専業画家としての人生をつねに憧れ続けて居られたことを知り、胸が熱くなった。今は、お二人とも、この世にはおられない!。

                                                            合掌。

ノモハン事件の塹壕の中で描かれ、中河原の御母堂様へ送られた戦時絵葉書(すみれの花の如き美しいロシア娘の顔)を、復員後、御母堂様から譲り受けられて、大切にしておられた。あの絵は、今何処にあるのであろうか?是非もう一度拝見させて頂きたいと思う。

山下清展は、2回とも大盛況の倉吉であるが、何故か、志功展は不発のよう。惜しいことだ。私には、わかる気がする。
  「オイ、ウチの子にならぬか?」「うん!。なったげる!!。」6歳の童子と東大寺の清水管長との会話
である。高木先生と清水公照管長の交流の結実の最大の賜の一つと拝する。
 
 
 

進む>>>