第三章 若き日々
おばちゃん 中島操子女史のこと
ロマンティナーササキの米子店出店の10年間、家内は最高責任者として、陣頭指揮で、米子に常駐し、頑張ってくれた。
4 人の子供は、お手伝いさん2人に頼んだ。中でも、進藤家の相続問題から意外な展開があり、谷川先生の「ヒトコト」で、中島のおばちゃんの御世話になることになった(70 歳〜 80 歳)。
おばちゃんの御主人は、戦時中の東京地裁の監督判事で、立派な人格者であり、又、母「とめの」と同郷、上古川の旧家、金屋斉江家の生まれでもあった。親不孝の私は、母への償いの気持で接し、おばちゃんも「私の人生で一番幸せの時」が口癖で、宿舎の余戸谷町から仲ノ町まで、老人車を押しつつ、通勤の道を「和歌の花道」と名付けて、楽しげであった。(歌集も「名もなくて」を池田プリントから出させてもらった。)
淀屋のことも、大蓮寺の大改装も、又、高木啓太郎先生との交流も、常に、おばちゃんと一緒の行動の賜である。いつもにこにこと人生いろいろのことを、短歌で昇華され、プラス発想の偉い人であった。昔、次男の成道さんとは、私は、明倫小学校、倉吉中学校の同級生であり、彼は秀才であった。大阪の三和銀行、東洋信託銀行のエリートバンカーで、米子店出店の頃には、ロンドン・ニューヨーク駐在で活躍され
た御仁である。
倉吉が誇る桜の名所、打吹公園(うつぶき)に鎮座する大江神社再建の実質的な発起人である故山下宗先生と故松山先生は、県中部の体育会の大御所で、殊に、松山先生は、光挌天皇を偲ばせる六尺豊かな偉丈夫で、別記した大鉄屋の仏像返還の堀尾家のお婿殿でもあられた。堀尾家は、松江藩の初代藩主である。
中島女史の素朴なもてなしの接待で、倉吉の発展のために、大江神社の再建をと熱のこもった会談が弾んだものであった。(事態が動き出した頃、残念なことに、私は入院。)おばちゃんは、八頭郡若桜の末娘さん、慧子さんのところで、96歳の長寿を全うされ、静かに昇天さ
れた。
おばちゃんの養育の賜は、長男の常務と次女の店長の日常の中に光るものを見る、この頃である。私に
は、勿体ない!!。
我が家の大恩人、中島のおばちゃん!、 どうぞ、安らかに。唯々、感謝。合掌。 |