刊行によせてごあいさつ目次本文(随時追加)本書『浪漫』の購入をお考えの方へお問合せ・ご意見 最終更新日:2006年4月20日

 

倉吉の白壁土蔵群
第三章  若き日々

河原町土蔵群のこと

昨今、倉吉では、赤瓦、白壁土蔵群が脚光を浴びている。観光バスも増え、賑やかである。倉吉の再開
発を願っての関係者の御努力に対しては、敬意を表するものである。

往年の思い出ではあるが、私には、スケッチで描いた頃の河原町の川端の土蔵群(小川・三島・佐々木)
が、とても風情があり、深く印象に残っている。が、とても風情があり、深く印象に残っている。

残念のことではあるが、もう復活することも無いので、せめて、思い出を書き留めることとしたい。

現在、小川酒造は残っているが、あとの二つは石垣のみである。三島家の跡は、村下家となり、我が家は、三好医院と薬局店とになっている。

三島家は、市の名誉市民第一号の磯野長蔵氏が、次男として生誕、キリンビール・明治屋を創業、バブル直前、一ツ橋大学へ1億円、倉吉市へ3千万円、三松育英基金を残された。近衛内閣の文相で、終戦時に自決された橋田邦彦博士と親戚でもある。

ビールの研究のため、ドイツへ留学されたが、その資金は淀屋牧田からのものという。

又、橋津の廻船問屋天野屋(大阪)とも深い関係がある由。我が家は、分三島のあとを、母「とめの」を迎える直前に買い取り改装したものと聞く。

曽祖父の儀平が、明治6年より、西町で商いをし、明治26年の大水のあと、祖父の康次が、1200円の現金と田・桑畑等を相続し、新町で製糸業を営み、当時、パリにおいて開催された第7回万国博で、銀賞を受賞した山陰製糸(グンゼの前身)に勝る「二羽鶴」の上等な製品を生産したが、42歳で早死した。事業整理の結果、75軒の貸家を得た由である。

スーパーで調子の良かった私は、父の許しを得て、大磯の吉田茂元首相の別荘の隣りの神奈川県二の宮の三島農園へ行き、河原町の三島家の家屋敷を譲って頂きたいと御願いしたが、市への寄贈を考えておられて断念した。市は維持管理の目処が立たず、やがて村下家が入られたのであった。

明治屋傘下の三島農園は、その後、西武の大磯ロングビーチ・レジャーランドとなった。

今、あの西武コンチェルンは・・・・・?
 
 
 
 

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