
レオナルド・藤田「パリ娘」
(原作カフェ)の学習模写
|
第三章 若き日々
山崎君のこと・・、私の決意と、そして
昭和19年、倉中1年4組の時、東京から山崎君が疎開で帰ってきた。紅顔の美少年で、おとなしい人だった。
父上は、海軍の偉い人のようであったが、しばらくして「アリューシャン列島」の最北端「アッツ島玉砕」が報じられた。戦局が南太平洋に移ったため、僅か2,567人になった守備隊が1万千人ものアメリカ第七師団の猛攻を受け、守備隊は哀れ全滅した。その部隊長が山崎保代大佐、その人であった。そして、中学2年生の夏、終戦となった。
「男子は軍人になることが最高の誉れ」とした価値観が百八十度の大転換!!。
私も生意気に「人生とは何ぞや?」を考える「哲学少年」になり、「天から授かった天分に忠実に従って生きること・・・・天職は画」・・・前田寛治画伯の西高での秋の展覧会を見て、心に決めたのであった!!。
(それにしても、終戦後早々に、この展覧会を催された先輩各位には感服する。)
3年前、NHKのディレクター、近藤史人氏の著作「藤田嗣治「異邦人」の生涯」を熊本駅ビル福家書店で求めた。この本の巻頭に、藤田画伯が描いた大作「アッツ島玉砕」があり、その大作の画面の中央に比較的に小さく山崎大佐(戦死後、二階級特進で中将)が描かれていた!。只、この戦場の画面のシーンには鮮明な印象を受けた。
終戦後、米軍に接収され、米国へ!!、そして返還されて、現在、国立近代美術館の奥深くに収蔵されている逸品であり、一度だけでも、出会いたいものである。
それにしても、黒田清輝に学び、渡仏して、恩師に反逆するかの如き道を拓き、「キキ」をモデルにフランス画壇に旋風を起こし、ド派手なパフォーマンスの超モボの彼が、戦時中、戦争画に熱中し、黄色人種のコンプレックスを爆発させるが如きの場面を描き、・・・洋画界の戦犯第一人者として、一身に責めを負い、昔、パリで面倒を見た国吉康雄画伯にアメリカで冷たくされ、フランスに帰化された!!。
しかし、石井好子女史が、パリでのシャンソンの初演の際、衆議院議長の父君からの花束よりも、藤田画伯からの花束贈呈が多くの聴衆の拍手を誘い、それが、彼女のシャンソン界デビューの契機となったという語り草の藤田画伯の寝る前の子守唄は、やっぱり「浪花節のレコード」であったというのは面白いと思う。
彼の心境の変化、身上の流転を思うとき、どうぞ安らかにと祈らざるには居られない。
そして、最後になったが、山崎司令官以下の御英霊に心よりの哀悼の真心を捧げ、御冥福をお祈りする次第である。
山崎君は、お元気であろうか?お会いしたいものである。
|