刊行によせてごあいさつ目次本文(随時追加)本書『浪漫』の購入をお考えの方へお問合せ・ご意見 最終更新日:2006年7月14日

 

和田英作「富士(吉田より)」
の学習模写

第三章  若き日々

杉山先生とお兄さんのこと、和田英作画伯

旧制倉吉中学の3年と新制の倉吉第一高校1年のとき、英語は杉山先生に習った。やがて、校長にもなられた先生であったが、名ピッチャーでもあられたので、マウンド上の投球前のリラックスポーズでの授業のお姿が今も懐かしく記憶にあり、大好きな方である。

徳田君と、百点満点の百八点を頂いたことがあった。ギリシャ神話の「不思議な水差し」( ミラキュラス・ピッチャー)、商業の神「マーキュリー」の化身が、ある小さな村を訪れたときの物語であった。

徳田君は、青山学院仕込みの上手な発音で感心したものだ。余戸谷町でお母さんと2人暮らし、父上は故徳田貞一工学博士で、日本列島の地震の原因を解明され、今も定説となった理論を創設された碩学であった。数年前に、寝台特急「出雲」で、偶々乗り合わせた麻布大学の名誉教授からも承った。徳田君は扶桑銀行の頭取の青谷の徳田家へ養子になったが、銀行家の道を選ばず、筑波大の教授になった。

杉山先生のお計らいで、先生のお兄さんに、明治町の先生のお宅で、お盆に帰省された折に面会させて頂いた。

憧れの上野の美校で、和田英作画伯に師事され、画伯が富士山を愛され、美保の松原辺りにアトリエ兼用の居を構えておられたのに従って、小田原の高校で図工の先生をされておられた!!。私を大変に励まして下さった。

数年前に、「アサヒグラフ」の別冊、美術特集の「和田英作」の図録を求め、学習模写に、10枚余り、富士山を摸写した。和田画伯は、富士山を愛し、様々な場所からその姿を描いておられる。F30 号の「富士(吉田より)」は、男性的な力強さを湛えた裏富士であり、画伯の傑作の一つであった。この残雪の富士の画のみを残し、あとは、全部消してしまい、他の画に書き換えてしまった。

「富士(吉田より)」の絵については、収蔵している鹿児島市立美術館に電話をかけたところ、折良く展示中との事で、跳んでいき、原作と摸写とを対比して、画の完成度を確認したことでもあった。

和田画伯は、宮廷のバラ園をとても大切にしておられ、皇室との交流も深く、明治24年に曽山幸彦画塾に入門以来、70年に及ぶ長い画歴を重ねられ、又、昭和7年に東京美術学校校長にも任ぜられた美術教育者という一面をも具有された大家である。

画伯は、49歳の時に、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章とコマンドール・エトアル・ノアル勲章を、69歳の時、文化勲章を授与され、77歳の時に文化功労者に選ばれ、更に、正三位に叙せられ、勲一等瑞宝大綬章を受けられた方である。

今後の私の風景画の進展の中で、お手本として、再挑戦したいと考えている御方である。

 
 
 

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