| 第三章 若き日
今、思うと惜しいこと、あれこれ
前田画伯の御曹司、棟一郎さんは、河原町の川沿いの小川酒造の貸家に、御母堂と住んで居られた。倉中五年生の時、私は一年生であった。戦時下、ゲートルを巻いて、善正寺のバス停に集合、隊列を組んで駆け足での登校であった。
いつもニコニコされ、可愛がっていただいた事を、今でもよく憶えている。
終戦直後、石谷先生の御指導で、油絵を始め、その川沿いの蔵(小川・三島・拙家)の並ぶ「川端風景」を描いて、県展に初入選した。(中学生では、県内初であった。)戦時中、小川の庭園の中に、のちに名誉市民になられた菅盾彦画伯が、浮世絵から抜け出たような麗人と寓居しておられた。もちろん、やがて、大阪に帰っていかれた!。
又、棟一郎さん母子も上京された。棟一郎さんは東大に入られて、国会図書館に勤務された由。(先日、NHKの淡谷のり子アーカイブスで知った。)
終戦後、私が画家志望を切り出した頃、反対の父は、何故か、菅盾彦画伯の事をしきりに話したが、不思議に内容は憶えていない!!。互いに反発して、よく心を受け止めなかったせいであろうか。あるいは、「日本画なんぞ、時代遅れであり、画ではない!。」と考えていたせいか?惜しいことをしたものである。
この齢になり、恥ずかしい限りである。
こんな素晴らしい人々が、私の極く身近におられたのだと今更に思う。
なお、県展入選の風景画(F4号)は、もっとよいものを描くつもりで消してしまい、裏側の出品当時のシールが残っているのみである。
前田棟一郎氏のこと、菅画伯のこと、県展初入選の画のこと、父との対話のことなど、今思い起こすと、すべて、とても、惜しい気がする。
でも、「生きて、心があれば」また、父にも、皆様にも、何らかの形で、償えるのだと思う昨今である。
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