刊行によせてごあいさつ目次本文(随時追加)本書『浪漫』の購入をお考えの方へお問合せ・ご意見 更新日:2006年9月15日

 

「ゆかたのひと」
第三章  若き日々

私の「淀屋物語」

祖父 康次が「二羽鶴」の商標の製糸で頑張った工場(現 ロマンティナーササキ スリープショップ(寝具店)1階倉庫、2階布団工場)の南隣りの明徳家は、江戸時代の関所だった由、又、その前の進藤家は、幕末の頃の久米郡(旧倉吉町)の郡長をつとめた家柄と云う。(大石蔵之介の御内儀りくさんの里 豊岡の進藤家の流れを汲む。)

江戸千家の茶人、進藤一白翁(104歳で昇天)は、祖父の兄が進藤家の養子となり、辛抱が悪く、そのあとに、徳岡家より入られた方で、よく、翁は「私は代用品でしてな!」と謙虚に云われていた。70歳から始められた「一白座運動」なる健康法を有志を集めて教えられ、私も手伝ったものである。(大歌人 佐々木信綱の書の大屏風がある和室で)

ある日、県立農業伝習館初代館長の谷川健夫氏、中林聖眼剣道師範と3人で、翁から「淀屋の物語」を聞いた。

淀屋は、当時、日本一の大金持ちで、大阪の淀屋橋を造り、全国の米の商いと七箇所の銀座を営み、隆盛を極めた。江戸幕府を始め、全国各藩への貸付金が不良債権となり、挙句の果てに、?所となり、島津公の申し出で、命だけは助けられたが、全財産没収、所払いの理不尽の物語であった。潜伏して再起を計り、御維新で見事仇討ちを果たしたと言う。

そして、わが生家の質倉に、大鉄屋の大切な仏像が、やがて発見された。その仏像を、私は大蓮寺の和尚さんに拝んでもらって、天神野の大鉄屋の御子孫、堀尾家へ返還して、喜ばれた。(20 余年前の事だった。)

祖父、康次は、18歳で、江本家より養子に入り、その頃、大阪淀屋橋の南詰の写真館で、写真を撮っており、9年前、その名刺判のセピア色の写真で、11 号の油絵を描き、今、西町に飾っている。

谷川氏(京大農学部を出て、満州開拓へ地質調査担当として参加、敗戦で引き揚げて、有名な「香鳥開拓団」の生みの親である。)は、2年の歳月をかけて、大阪・京都・滋賀を廻り、「淀屋物語」の関連の調査を進められた。その流れの中で、阪大の宮本又次、作道洋太郎両経済学博士と繋がり、更に、船場、淀屋についての研究の代表的な大家である大阪市立大の横山三郎先生へと繋がっていった!!。

当時、83kg にもなった私は、肥満を治すために聖徳太子ゆかりの地、奈良県信貴山の断食道場に入り、28日間の修行中に閃いて、この数世紀に及ぶ大事件の客観的検証が可能なお方は、新山通江女史と考えて、御願いしたのであった。女史は、ロマンティナーササキ米子店出店に際し、次長として、高レベルの社員教育を実現された功労者であった。このたび、「真説 淀屋辰五郎」が出版功労賞受賞の栄に輝かれ、大阪・地元と大活躍の日々、誠におめでたく、この未来画廊で、お祝いとして描いた拙作の油絵(F 50号)の寄贈の式を挙行したいと思っている。

けい所300年の日が、5月16日との由、家内の一言からの地元初の個展の開催の日と同じ日となったのも、天の摂理であろうか!。

かって、顧問であった故山下宗先生、相澤代議士の御尽力で、大河ドラマの企画にと上京し、渋谷のNHKを訪ね、和田番組編成局長に御相談したことが懐かしく思い出される。

 
 

<<<戻る