| 第三章 若き日々
新山通江先生 F 50 号 の肖像画の寄贈に思う
個展パートTの最終日の5月22日、長柄氏の運転で、大山町名和(名和長年公の五輪搭附近か)から、大阪での疲れ(淀屋サミット大阪編)のなか、遠路わざわざの御来光頂いた。
いろいろ都合もあって、30分余り遅れられ、事故か?とも心配したが、とにかく、くさぐさの祝いの品を持参され、絵を見ていただき、下手くそな私の直筆の目録を持ってもらって、50 号の油絵の前で、記念写真を摂ってもらった!。
大変喜んでもらって、後日、下記のお便りが届いた。
午後、主婦の店スーパーチェン倉吉店時代の第一期生である本庄さんと岩本さんが、和室まで訪ねてくれた。
2日前、河原町、西町、新町、仲ノ町と私を探し、更にパープル店、伊木本部に来て、会場で花束贈呈をと来て下さった事を知り、その夜、メモに残されていた電話番号で再会の約束をした面々である。
借りていた倉吉未来中心の和室で、互いに47年ぶりの再会を喜び合った。話の途中で、「朝の歌」の合唱が、3人で始まった。
あの頃、朝礼で合唱した爽やかな思い出と共に、大声の満面笑みの中で、新山さんが歌詞のコピー数枚を出して、共に2番を歌いかけたら来客があり、ストップ!。新山さんは、「近頃、あちこちの講演会の折、皆さん、元気の出る歌をと合唱しています。」とのことであった。
思えば、私が米子出店当時の直接の社員教育は、この歌の解説と合唱のみで、あとは新山さんにお任せした。女史は、松江やよいデパートでの社員教育のベテランであった。
新山さんは、長女まゆみと同じ星だから、折角、あふれる程の力量を半分程度しか出されない控えめなお人柄であるが、淀屋顕彰の責任感、使命感から、「大阪淀屋サミット」を堂々とリードされるような活躍が自然と板についたのだと感心している次第である。
私のことは、「極力、表に出さないように、」常々御願いしているが、このことが、大変ご迷惑をおかけしていることにはじめて気付かせてもらったことでもあった。すべては「天の仕組み」、『ま心』の連鎖なりと、有り難く、プラス発想に受け止めることにしたい。
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