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記事掲載者:三原 政人さん

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« 自転車で行く蒜山の秋 | ブログのトップ | 小学生の見た昭和16年12月8日 -戦争終わる- »

ジャンル:こぼれ話  文化・歴史  

小学生の見た昭和16年12月8日

これは私の小学校3年生のときの思い出です。

その日は小春日和のとても暖かい日でした。昼過ぎ、自転車から降りた父は「今日アメリカと戦争が始まった」といいました。

当時私たちの集落の20戸あまりで、自転車とラジオがある家は1戸しかありませんでした。


父は100円の保険金が満期になったということで、50円ずつ出して、自転車とラジオをそれこそ「清水の舞台から飛び降りる」気で買ったそうです。(当時建設作業員の日当は、1円位でした。)

そのラジオは雑音がひどく、今なら誰も相手にしないような品物でしたが、なにしろ唯一の情報源ですので近所の人など集まり、雑音の中からニュースを聞こうと真剣でした。

ある年配の人が「われわれのような小作人と大地主がけんかするようなもので、日本がアメリカに勝てるわけがない」えらいことになったと言いました。

そんなことを大声で言うと巡査に捕まるとのことで、誰もはっきりは言いませんでしたがこの田舎でも、アメリカと日本の国力の差は誰も知り、本当は心配していました。

当時の蒜山原には、今の蒜山高校のところと川上小学校のところに兵舎があり、開戦から1年あまりは戦車の響き、大砲、重機関銃、小銃の発射音、夜の照明弾の打ち上げなどにぎやかでした。

真珠湾攻撃の大勝利、シンガポールの占領などこの戦争は勝てると福田神社のお礼参りする人も大勢いました。

ところが 太平洋戦争は昭和16年12月8日から昭和20年8月15日までの3年余りつずくわけですが、思ったより破局は早く訪れたようでした。

あれほどにぎやかだった大砲などの発射音は昭和18年に入ると全く聞かれなくなりました。友達とよく兵舎のそばに遊びに行きましたが、そこには大砲を曳く馬もおらず多くの兵隊さんが竹槍の訓練をしていました。

アメリカの経済封鎖、空襲で軍需工場は丸焼け、蒜山原に回ってくる兵器などあろうはずもないことは地元の人もよく知っていました。

蒜山中学校の下は広い湿地帯で、耕地になっていませんでしたが、それの排水工事をしてサツマイモの畑を作ったのは倉敷海軍航空隊のパイロットのタマゴたちでした。飛行機どころではなく、今の食うものがなかったのです。

夜な夜な家の戸をたたくものがいる。出てみると飯が食べたい、味噌汁がほしい。故郷を出てからまだ味噌汁を食べていない、といっているのは兵隊さんでした。秋になって大切なサツマイモを夜全部掘られても地元の人はみんな兵隊さんには好意的でした。

兄は17歳で海軍に志願兵となりなした。29才で叔父は2児を残して戦死しました。

戦死者の遺骨は、ふつう村役場から家庭に渡されるようで、私たち小学生もその遺骨のお迎えに学校から行きましたが、喪服を着た本当に若い嫁さんが夫の遺骨を胸にしている情景は今も忘れません。

※上記の写真は戦時中はいていたズボンです。服などどこにも売っていないのでやぶれ放題で「継ぎ」しか方法はないのです。

※次回は昭和19年頃から終戦までの話です。

投稿日2006年12月14日 09:52


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