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クリスマスの夜話
幼子キリストが生まれた話には、ベツレヘムという小さな街、しかも馬小屋の中の飼い葉桶が登場します。ヨセフが臨月のマリアを連れて宿に泊まろうとします。しかし、どこも一杯で2人は困ってしまいます。
ですが、親切な宿屋の主人が、「馬小屋ならあいています」といって2人の寝床を用意してくれます。このような粗末なところでキリストが生まれたからといって、「キリストは人間の最も清貧な生き方を示したのだ」というような誤解をしてはいけません。当時、誰もがそのような条件で子どもを産み育てたのです。決して貧しさを誇張してはならないのです。
キリストがお生まれになるということを、光輝く星を見て導かれる人がいます。3人の博士です。「さあ、キリスト様を拝みに行こう」。3人はそれぞれ乳香、もつ薬をもって輝く星を目指します。その星の下に馬小屋があるのです。
その途上の3人の期待や喜びはいくばかりだったでしょうか。誰も喜ばしいことには胸が躍ります。そして馬小屋に着きます。博士は飼い葉桶に眠るキリストに対面し、深くお辞儀をします。マリアは嬉しそうです。神様からお告げをうけて生まれたのですから、その不思議な巡り合わせをしみじみ。想ったはずです。
父親のヨセフは、キリストが自分の子である実感をまだ抱かないはずです。そうです。マリアは、神様のお告げで身籠もったとされます。ヨセフは複雑な想いです。でも一人子が飼い葉桶の中に眠る神々しい姿に、やがて安堵と喜びがじわじわわいてきます。誰もが赤ちゃんの誕生には、深い感動を覚えます。
今年もいろいろな喜ばしい出来事、悲しい出来事、忌まわしい出来事がありました。皆さんの周りはどうでしたか?私ですが両親と兄が昇天しました。親戚には新しい命の誕生もありました。これも不可思議な生命の営みです。すべての者にやってくるのが誕生と死です。当たり前のことだ、、そうです。
それを今一度じっくり考えるのが、クリスマスです。私たちは、だれもがこの命を預かっています。自分の所有ではありません。命はいただくものでなのです。自らの意思で命を創造するのでもなく、命を絶つものでもありません。精一杯与えられた命を生きることに人生の意義と喜びがあるはずです。クリスマスは命の尊さを教えているのではないでしょうか。
投稿日2007年12月25日 11:02




