ジャンル:こぼれ話
磨り減った父の机
毎日、父親の遺品を使っています。机、椅子、文房具箱、辞典、碁盤などです。2年前に96歳で他界しました。この年は母親も後を追うように逝きました。94歳でした。
机に向かっていると、昔母親からきかされたことを想い出します。それは、彼女が樺太で成田の家に嫁にきたときのことです。沢山の小姑がいたそうです。父の机を見たとき、たいそう驚いたのです。机の両肘のところが磨り減っていたのだそうです。「どれだけ勉強したのかと思った。」と言っていました。苦学をした青年時代です。樺太鉄道に勤めていたとはいえ、貧しかったようです。
父親はやがて樺太を離れ、東京へ出ます。そして国鉄が経営する夜間の鉄道学校に入ります。樺太から選抜されて行ったようです。初めての東京での寮生活、日曜日は制服を着て鎌倉や江ノ島、熱海、箱根などを巡ったようです。そのときは、国鉄は天下の日本国有鉄道、たいそう威張り散らしていたようで、パスを持っては私鉄なども大手を振って無賃乗車していたとのこと。
卒業後、彼は学校を終えて樺太鉄道に戻ります。そして、樺太一大きな駅であった豊原の助役になります。その頃が絶頂期だったのでしょう。やがて終戦。彼はロスケ(ロシア人の呼び方)の捕虜となります。彼は東京で英語の読み方を学んでいたので、ロシア語の会話もすぐ覚えます。捕虜なのですが、ロシア軍の武器、燃料、食料など貨物の担当なので、ロスケとは配車や輸送計画などでやりあっていたようです。それに、父親は酒に強く、ウオッカをロスケと一緒に飲んでいました。そんなわけで、シベリアの抑留生活は免れる幸運に恵まれます。
北海道に引き揚げてきたのは昭和23年。まさにどん底の生活が始まります。それから国鉄に勤めること35年で定年です。父親は、尺八の大師範、カメラ、読書、弓、映画鑑賞、ダンスなど多趣味の男でした。ひ孫の誕生日カードには英語でお祝いを送っていました。ことさら熱中していたのは、読書です。トルストイやドストエフスキーの小説が好きでした。それからジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」は「3回読んだが、まだ良くわからない」と苦笑していました。
八王子に引退してからは、近くの拓殖大学の授業に聴講生で毎週聞きに行っていました。いつも最前列に座っては聴いていたそうです。若い学生から「ノートを貸して」とせがまれたり、「先生から質問で指されて困った」と言っていました。死ぬまで好奇心が旺盛な父でした。
斎場で親戚と一緒に骨拾いをしたとき、彼の頭はそのまま釜からでてきました。一同唖然。それは「まだなにか知りたい、やりたい」と言っているような形相で、忘れることができない光景です。
投稿日2009年05月02日 14:56




