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法要から考える
先日、母親の三回忌を執り行いました。
法要にはいろいろなしきたりがありますので、私のような粗忽者には、少々緊張する時です。
幸い親族ばかりでしたので、ポカをしても気にせずに済みました。
今回の話題は外国の法事で経験したことです。アメリカでの儀式です。
まずは葬式から。
ほとんどの場合が教会や葬儀屋で行います。
服装ですが、教派によっては違います。黒の礼服を着るのはカトリックが多いです。
しかし、プロテスタントには、黒ではなく明るい色の服を着る場合もあります。
その意味は、人が天国に召されるのは喜ばしいことだという信仰からきます。
永遠の命を得たことを皆で喜ぶという思想です。
人間的には悲しいことだが、神様の元に召されたことは名誉であるというのです。
こうした葬式での礼拝では、讃美歌を歌って悲しみを克服し、ともに命を全うしようと呼びかけられます。
礼拝では、牧師や神父は死者を偲びながら、家族や友人、知人に慰めや激励を与えます。
聖書の言葉を引用しながら、わかりやすい言葉で生きること死ぬことの意味を解き明かします。
そして、死者への祈りと神への感謝が捧げられます。
仏式の葬儀です。
なぜ、わかりやすいお経とならないものでしょうか。
会葬者は神妙な顔をしてじっと聞いています。苦痛ですらあります。
中には、わたしのように「早くお経が終わらないか、、」という不遜な者もでてきます。
さっぱり「ありがたい」とは感じないのは、わたしの理解不足で済むことでしょうか。
ですが葬式の終わりにお坊さんから会葬者へお説教があります。これは誰にも良くわかります。
「やれやれお経が終わったか、、、」という解放感に包まれて皆の顔がにこやかに見えます。
最近は、臓器移植手術に関連して臓器提供とか安楽死が話題となります。
話題の中心は、死生観についての生きる我々の異なる意見です。
教会の考え方は、命は人の私有物がはなく、管理を委ねられているという立場をとります。
従って人の臓器はその人のものではない、みんなのものだという考え方です。
脳死の人には新しい命を授けて、臓器を必要とする者とで分かち合おうというのです。
新しい命とは第二の命、すなわち天国での命ということです。
安楽死について、残された家族が苦しむことに自責の念があります。
この意識は、宗教的な背景が欠如していることから生まれます。
言い換えますと、「人は命を所有している」「本人以外の者がとやかく言えることではない」という意識です。
それはそれで一つの生きようなのですが、命を分かち合うという観点を共有するならば、自責や罪の意識から解放されるのではないでしょうか。
投稿日2009年06月16日 12:13




